Research Projects -
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In what sense was the Russian Empire an autocratic state?
Grant number:22K00959 2022.04 - 2025.03
Japan Society for the Promotion of Science Grants-in-Aid for Scientific Research Grant-in-Aid for Scientific Research (C) Grant-in-Aid for Scientific Research (C)
吉田 浩
Grant amount:\2730000 ( Direct expense: \2100000 、 Indirect expense:\630000 )
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In which sense was the Russian Empire an autocratic state?
Grant number:19K01056 2019.04 - 2023.03
Japan Society for the Promotion of Science Grants-in-Aid for Scientific Research Grant-in-Aid for Scientific Research (C) Grant-in-Aid for Scientific Research (C)
吉田 浩
Grant amount:\3770000 ( Direct expense: \2900000 、 Indirect expense:\870000 )
ロシア皇帝がいかなる意味で専制君主であったかというテーマに対し、本年度は農奴解放事業を対象として二つの予備考察をおこなった。
1農奴解放開始のきっかけをクリミア戦争の敗北ではなく、クリミア戦争後の経済政策の失敗に求めるものである。財務官僚の手記、法令、統計およびロシア国立文書館所蔵の若干の未公刊資料を用い、以下の結論に達した。すなわちクリミア戦争中に蓄積された財政赤字にたいして財務省は予算の公開や経済の国家管理から民間のイニシアティヴへの移行という新政策で対応した。1857年まではこの政策により貨幣価値は保たれ、過度な赤字公債を発行することもなく、自由主義的経済政策は成功しつつあるように思われた。しかし1857年7月20日の公債金利の引き下げが致命的な金融政策となり、1858年には財政状況は悪化し、国家破産が現実味をおびるようになった。ロシア農奴解放の実施やその方法について迷っていた政府は、これをきっかけとして土地買戻し方式により農奴解放を実施することとし、農奴を抵当とする国家貸付が廃止されることにより貴族は農奴解放の実施を受け入れた。
2農奴解放の実施を宣言したとされる1856年3月30日の皇帝演説の意味を再考することである。1856年1月-3月における皇帝の冬宮における面会記録をロシア国立歴史文書館で調べることにより、アレクサンドル2世が誰と相談し、どのような状況下で演説草稿が書かれたかを考察した。その結果、当該時期に皇帝が繰り返し面会していたのは国家評議会議長オルロフ、パーニンをはじめとする「保守派」ばかりであり、従来の政策からの断絶である農奴解放の実施を積極的に支持する政治家との交流は認められなかった。したがって、これまでの史料調査の限りでは当該演説は農奴解放の実施を宣言するものとは言えないと考えられるが、この点について別の史料や状況証拠を材料として引き続き検討する -
帝政ロシアの宮廷料理とその構造
2017.04 - 2018.03
アサヒグループ学術振興財団 食生活科学・文化、環境に関する研究助成
Authorship:Principal investigator
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Historical significance of the Great Reforms by Aleksandr II
Grant number:25370863 2013.04 - 2016.03
Japan Society for the Promotion of Science Grants-in-Aid for Scientific Research Grant-in-Aid for Scientific Research (C) Grant-in-Aid for Scientific Research (C)
Yoshida Hiroshi
Grant amount:\3120000 ( Direct expense: \2400000 、 Indirect expense:\720000 )
Among several reforms, which consist “the Great Reforms” by Aleksandr II, this research focuses on the abolition of serfdom, using such archival materials as the collections of Aleksandr II and Konstantin Nikolaevich of the State Archive of the Russian Federation. I came to the following conclusions. First, the Abolition of Serfdom in Russia is the result of many reforms concerning the serfdom since the beginning of the 19th century. Second, though Crimean War seriously damaged the national treasury, it didn’t make the Emperor decide the abolition of the serfdom. Third, the final decision to realize the plan of the abolition of serfdom was made around the summer of 1858.
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19世紀ロシアの貴族文化と宮廷料理
2005.04 - 2006.03
味の素食の文化センター 食文化研究助成金
Authorship:Principal investigator
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ロシア法文化に関する歴史的研究
2004.04 - 2005.03
学術振興野村基金 海外派遣助成金
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Integration of Peasants into the "All Class Law Code Order" of Imperial Russia
Grant number:15520451 2003 - 2005
Japan Society for the Promotion of Science Grants-in-Aid for Scientific Research Grant-in-Aid for Scientific Research (C) Grant-in-Aid for Scientific Research (C)
YOSHIDA Hiroshi
Grant amount:\3500000 ( Direct expense: \3500000 )
In the process of The Great Reforms, the Imperial Russian government came to know the needs to integrate the peasant class, who made it the rule to resolve legal problems by the customary law, into the imperial law codes. Russian peasant was said to have a special legal view, especially in the field of property law. The focus of problems was whether to introduce the sovereignty of private ownership to the peasant world. By using such materials as volost' court decisions, decisions of district congresses of land captains and provincial boards, and arguments done by governmental committees I came to such conclusions as follows. The Imperial Russian government had came to know in the mid 19^<th> century that Russian peasants had had the special legal view about their property and tried to make an article introducing the peasant world a legal view of private ownership in the emancipation statute. But in vain. There arose a dispute. The government collected many materials about the peasant court practices to bridge the gulf between the two parties. In the changing circumstances with the development of capitalism, some peasants came to accept the imperial law code, but others remained in the traditional peasant law. This is one of the reasons why the Russian government couldn't integrate the pesant class into the imperial law order.
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ロシア中央黒土地域の歴史地理学的考察
Grant number:09203207 1997
日本学術振興会 科学研究費助成事業 重点領域研究 重点領域研究
吉田 浩
Grant amount:\800000 ( Direct expense: \800000 )
本研究はロシアの代表的な農業地帯である中央黒土地域が、19世紀の国家機構の再編期にいかなる構造を持ち、帝国内でいかなる働きをし、どのような地域的一体性を保持していたのかを、その地理的位置を考慮しながら明らかにすることを目的として行われた。研究実績は以下の通り。
1.19世紀末から20世紀初頭の中央黒土地域の農民研究-この時期の農民生活は、農業条件の悪化の過程であった。第一の理由は森林の減少である。これは単純に耕地の増加を意味するのではなく、逆に気候の乾燥化、水源の枯渇化、窪地の増加を意味し、さらにこれは畑を浸食することにつながる、ヴァロ-ネジ県4郡の史料によれば、1860年代末から1880年代にかけて耕地不適地は71,3%増加した。第二に、人口の増加が、一人当たりの土地量を減らした。土地不足そのものと共に、土地が減少するとという感覚が心理的に大きな影響を与えた。その結果、共同体的集団主義と個人主義の葛藤が農業中心のこの地においても特徴となった。
2.移民、植民、出稼ぎ研究-(1)1884年内務省の人口動態調査分析により、ドン・クバン地方へ農業移住(長期)と、モスクワ方面への工業出稼ぎ(中期)の2つのパターンが確認された。(2)1870年代から1920年代までのタムボフ県の農業移民について、シベリア、ウファー・オレンブルク地方、ヴォルガ川下流地域、北カフカス地方への移住が確認された。20世紀になると移住者が激増するが、出戻り者も52%に昇った。多く移住者を出したのは、人口密度が比較的高く工場が少なく専ら農業を営む地域の多い郡である。人口増加、土地の狭あい化、そして農業以外に生活の道が存在していなかったことにより農民は移住を選択したと考えられるが、それでもタムボフ県では土地問題は解決せず、1920年代後半にも年平均2万5千〜3万人が移住を希望していた。 -
ロシアの法文化に関する基礎研究
1996.04 - 1998.03
松下国際財団 松下国際財団助成金
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ロシア中央黒土地域の歴史地理学的考察
Grant number:08206206 1996
日本学術振興会 科学研究費助成事業 重点領域研究 重点領域研究
吉田 浩
Grant amount:\1100000 ( Direct expense: \1100000 )
ロシア中央黒土各県地誌につき、以下を明らかにした。1自然環境。地形は広い平野が際限なく広がる、いわゆる農村ロシアを代表する風景を構成。気候は年平均気温が摂氏3〜5度で、11月から3月まで氷点下。6〜8月には30度を越える日もある。地質は黒土が多いが、粘度質、小石が支配的な地域もある。こうした風土が農業構造を規定している。2人口。1811年比で63年には1、35倍、97年には約1、77倍、1914年には2、42倍(当該7県合計概算19750900人)に増加、特に都市人口の増加率は1、5から2倍。3産業。(1)農業は、共同体的土地所有形態のもと三圃制農業をソハ-を用いて行うのが代表的である。作付け面積順の産物は、ライ麦、エンバク、キビ、ソバ、小麦。出荷はヴォルガ河、ドン河の水運拠点まで荷車で運ぶというのが一般的であったが、鉄道開通後はモスクワ工業地帯へ鉄道で。穀物は多くバルト海から輸出される。(2)手工業。サモワールやその他の銅製品特産地がトゥーラ市周辺およびトゥーラ郡に、大槌や唐箕などの農具生産の著名地域がリャザ-ニ県サポジュコフ郡に存在する。(3)工場生産産業。全体的に他地域と較べると未発達であるが、北部及び西部で発達してきた。1897年の生産額は1億3800万ルーブル、2639工場、12万5185人の工場労働者という具合である。生産額の多い順に産業を列挙すると食料品、金属加工業、繊維、製紙、木材加工、化学工業となる。4商業。交易、貿易などに携わる業者は20世紀初頭に4万社、年間の売り上げは2億ルーブル、農民商工業製品、飲料、繊維マニュ製品を扱う。5鉄道。1863年のモスクワ-リャザ-ニ線がはじめで、1870年代には営業中あるいは建設中の鉄道が3000ヴェルスタとなりモスクワからアゾフ海までが結ばれた。また70年代にはそれなりの収益も生み、人およびモノの流れに大きな影響を及ぼした。
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農奴解放後のロシア農民慣習法とその変容
Grant number:07710255 1995
日本学術振興会 科学研究費助成事業 奨励研究(A) 奨励研究(A)
吉田 浩
Grant amount:\1000000 ( Direct expense: \1000000 )
本研究においては、ロシア農民慣習法のなかでも、農民の所有観念にかかわる問題をとりあげた。まずはじめに、農奴制廃止以前の慣習法の姿として、定説である勤労原理学説を確認した。その要旨は、「農民家族とは親族の私的団体ではなく、勤労経営団体であり、血縁的アルテリと名付けられる。財産は私的所有権を伴わず、家族全体に共有される。その財産が分割されるときも、系図における位置(尊属・卑属・直系・傍系)によらず、共同労働への参加の度合いによる」というものである。慣習法において勤労原理が意味をもつのは、家族の財産・所有関係のみではなく、広く所有権にかかわる。そこから、「労働が投下されているものに農民は特別の意義を認める。逆に言うと、労働が投下されていないもの、たとえば森林を盗伐しても、森林は水や空気と同じ自然の恵みであるから、罪とはならない。」この学説については、ロシア農民共同体で土地割替え慣行が維持されてきたことの論拠として、注目されてきた。ただし、農民の日常生活に即した法意識という視点からはまだ十分には検討されていない。そこで、まずこの学説そのものの検証のために、郷裁判所の判決録をひろく分析した。その結果、(1)家族内財産関係においては、勤労の重要性とならんで、血縁関係も重要であることおよび非血縁者が家族経営に血縁者と同等の権利をもって加わるには、契約関係の締結など勤労以外の要素も必要であること(2)森林盗伐にたいして郷裁判所は所有権侵犯であると判決することが一般的であること、があきらかになった。本研究により、勤労原理を否定するとみえる事例が明らかになった。同時代の慣習法研究者はこの事例にたいし、郷裁判所が民衆の法観念を反映していないからであると考えたが、本研究から私は、農奴解放後慣習法と一般法の相互作用によって慣習法が変容したという仮説をたてた。が、その論証についてはさらなる研究が必要である。